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たたらとは

中世のたたら

中国山地への集中と炉の大型化

中国山地への集中と炉の大型化 中世になると鉄の生産は、主に中国地方、特に近世たたら製鉄の発達した中国山地に集中するようになります。鉄原料はほとんど砂鉄です。

11世紀から13世紀にかけて広島県大矢遺跡など見られるように炉の大型化地下構造の発達などの画期を迎えます。長方形箱型炉の炉床は舟底形となり、炉体も長さ2m、幅1m程度と近世たたらの規模に近づいてきます。14世紀後半から15世紀に入ると、広島県の石神遺跡や島根県の下稲迫遺跡(しもいなさこいせき)のように本床、小舟状遺構を持ち、近世たたらに極めて近い炉形、地下構造となります。各時代別の炉の長さ、幅寸法の変化を図に示しましたが、時代が下るにつれて大型化する傾向が分かります。

製鉄炉の長さ、幅寸法の時代的変化


たたらの生産性の向上

室町時代後半には刀の需要が急速に増え、また市民社会の成立もあって鉄鋼需要が著しく伸びます。中国の明に年間約37000振りの刀が輸出され、いわゆる数打ち物の日本刀が製造されたのもこの頃です。この結果、たたらの生産性アップが求められ、炉の大型化と中国山地への生産の集約が加速されたのでしょう。もちろん、そのためには吹子の改良が必要だったでしょう。おそらく明との交易によって、数人踏みの往復動足踏み吹子が使われるようになり、炉温が上がり、炭素の吸収もすすんで鋼やズクが大量に生産されるようになったと思われます。

鉄と貿易

16世紀の初めに有名な千草鋼出羽鋼が出現します。これらの鋼は恐らく、ズクや錬鉄でなく、意識的に鋼を多量に作る方法によって作られたものと思われ、ケラ押し法の始まりと考えられます。対明貿易が可能となったのもこれが背景にあったものと思われます。

戦国時代になり鉄不足の時代に入ります。このころポルトガル人を通じて南蛮鉄が輸入され、盛んに刀や銃砲が作られます。南蛮鉄はインド鉄と言われ、慶長から宝永年間まで約90年にわたり使用されました。豊臣秀吉は天下統一後、朝鮮の役の影響もあって、量産方式である千草鋼、出羽鋼の新製法を全国に奨励したと言われます。
名刀匠堀川国広は新素鉄(千草鋼、出羽鋼)を用い、新しい鍛え方を工夫し、新刀を作りました。世にそれ以前(慶長以前)の日本刀を古刀、それ以後のものを新刀と言います。したがって、新刀と古刀の間には地金の違い、換言すれば製鉄法の違いがあったと認識されています。
新刀は千草鋼に象徴される量産方式の鋼、古刀はまだはっきりしませんが、ズク卸の鋼か、鉄卸(錬鉄を浸炭して鋼にする)の鋼を用いたと思われます。

製鉄技術

古代から中世にかけてのたたら炉の進歩は前述の通りですが、そこでどんな鉄が製造されていたのかは明らかではありません。

主に銑鉄を作り、大鍛冶的製法で脱炭し、鉄や鋼にしていたのか、それともケラ状の錬鉄が作られ、これを精錬鍛冶(ケラを高温で叩いて、中に含まれる鉄滓を絞り出す)して鉄を作ったのか、古刀の製造法が分からないのと同様にまだはっきりしないのです。

近世たたらに見る大鍛冶は、鉄の量産が確立する江戸中期(17世紀後半)頃と考えられていますが、中世たたら炉に付随して複数の鍛冶炉が検出されており、また地下構造の発達した鍛冶炉も発掘されていますので、近世への過渡期としての大鍛冶技術の進歩は十分うかがわれます。


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