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たたらとは

たたらの衰退

西洋における製鉄技術の進歩

たたら製鉄の最盛期は幕末から明治初期にかけてです。この時期は同時にとうとうと西洋の先進文明が我が国に押し寄せ、国内は疾風怒涛の時代でした。たたら製鉄の絶頂期は同時に洋鉄の脅威が高まり、衰退を開始した時でもあったのです。

当時、すなわち19世紀の中葉は西洋においても製鉄に革命が起こった時期なのです。溶鉱炉は14世紀にライン川の流域で発明され、大砲や弾丸を作るための銑鉄を製造しました。
やがて、燃料は木炭から石炭へ、さらにコークスヘと転換し、18世紀末、蒸気機関が発明され、産業革命が起こりますと、溶鉱炉の生産量は一挙に6000トン/日に上がりました。19世紀の半ばになるとパッドル法に代わって、銑鉄を能率的に鋼に変えるベッセマー転炉法(1856年)、シーメンス・マルティン平炉法(1864年)、脱燐を可能にしたトーマス法(1870年、塩基性製鋼法)など次々に革新的技術が生まれました。これにより、西欧では製鉄はすでに手工業の域を脱し、量産が可能な工業の域に達していたのです。一方、刃物や刀剣など高級な鋼にはスエーデン錬鉄を原料にるつぼ中で炭素付与物とともに溶解するるつぼ鋼が用いられていました。このように西欧でも鉄と鋼(刃金)は異なった製造法で作られていたのです。それは鉄が量と経済性を重視する一般構造材料に用いられたのに対し、鋼は刃物や武器など特に質を重んじる特殊鋼に用いられたからです。スエーデン鋼は高品質の代名詞のように賞用されていたのです。特殊鋼は19世紀末にるつぼ鋼から新しく発明されたアーク炉(1900年)によって製造されるようになり、工業製品に脱皮します。

日本における洋式製鉄

日本では阿片戦争や黒船来航など国際的脅威が高まる中で、開明藩主により反射炉が建設され、国防のための大砲や砲弾が製造されるようになりました。鍋島藩、薩摩藩、水戸藩などです。徳川幕府も江川太郎左衛門の建議を入れて伊豆韮山に反射炉を築きました。これらの反射炉の原料鉄にはたたら製鉄によるズク(銑鉄)が使用されました。南部藩士、大島高任は安政4(1858)年、水戸反射炉への銑鉄供給を目的に釜石に西洋式溶鉱炉を建設します。同年12月1日火入れを行いました。これが日本における洋式製鉄の始まりです。しかし、燃料には木炭、吹子は水力を用いるという旧式の方法だったため、経済的に採算が合わず、結局、明治13(1880)年、閉鎖されることになり、その後我が国で初めてコークス製鉄技術を確立(1894年)した田中長兵衛によって釜石鉱山田中製鉄所に引き継がれます。

伊豆韮山の反射炉
(写真提供:韮山町役場産業観光課)


明治29(1897)年、官営の製鋼一貫製鉄所の建設が議会で決まり、ドイツの技術を導入して明治34(1901)年八幡製鉄所が建設され、真の近代鉄鋼業が始まります。しかし、操業が順調に進むようになったのは明治38(1905)年、黒字に転換したのは明治43(1910)年になってからでした。

たたらの消滅

一方、我が国近代製鋼技術の草分けは陸海軍の諸工廠でした。明治15(1882)年、東京海軍造兵廠で出雲、石見の玉鋼及び包丁鉄を用い、るつぼ鋼の製造を開始し、明治23(1890)年には横須賀工廠、明治25(1892)年には呉工廠に酸性平炉を建設し、装甲板、砲身などの製造を開始します。陸軍は明治22(1889)年に大阪造兵廠でるつぼ鋼による工具鋼や砲弾などの製造を始めます。洋鋼は明治の初めより和鋼・和鉄の生産量の約5倍(約5万トン)輸入されていましたが、日清、日露戦役で更に急激に増加します。たたら製鉄のみではとても需要の急増に追いついて行けず、国産洋式製鉄もまた軌道に乗っていなかったからです。山陰のたたら師たちは西洋技術の取り入れや合理化に懸命の努力をしますが、経営は好転せず、新市場を求めて陸海軍へ積極的に働きかけ、明治30年代までは何とか売上を増やすことが出来ました。しかし日露戦争後の反動恐慌と八幡製鉄所の本格操業により、次々と廃業を余儀なくされ、第一次世界大戦後の大正14(1925)年、ついに最後のたたらの火が消えます。

明治時代における洋鉄の輸入・生産と和鉄・和鋼の衰退

(注) 和鉄・和鋼;中国地方の生産
国産洋銑、国産洋鋼;洋式製鉄法による釜石・八幡の生産

たたらの復活

昭和に入り、15年戦争が始まると、軍刀需要をうけて靖国たたら叢雲たたらなど一時期たたらは復活しますが、戦後は廃絶します。昭和45(1970)年、たたら製鉄技術の消滅を恐れて、日本鉄鋼協会主導の下にたたら復元実験が行われましたが、たたらの復活をねらったものではありませんでした。しかし、昭和52(1977)年、日本刀の原料としての和鋼が払底するに及び、文化庁後援のもとに、日本美術刀剣保存協会が日刀保たたらを建設し、現在も冬季に操業して各地の刀匠に玉鋼を提供しています。たたらは再び生き返ったのです。


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