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たたらの歴史

ふいご(吹子、鞴)

砂鉄や鉄鉱石を木炭によって還元し、鉄を取るには温度を高くしなければなりません。1000℃以下でも還元できますが、非常に時間がかかり、しかもできた鉄は海綿鉄(スポンジ)状で、もう一度半熔融状態に加熱しなければ鍛造が困難です。能率的に鉄を取るには還元性雰囲気の中で砂鉄の熔融温度(約1400℃)以上に長時間保つことが必要です。それには人工的に風を送る吹子が不可欠なのです。

我が国で記録に初めて現れる吹子は、「日本書紀」にある天羽鞴(あまのはぶき)という皮袋の吹子(皮吹子)です。これは真名鹿の皮を全剥(うつはぎ)にして作ったとされています。この皮吹子は、もともと中国から朝鮮半島を経由して日本に伝えられたと考えられています。中国では漢代の出土品に上から吊った皮吹子のレリーフが描かれており、後漢書には水排、すなわち水車に連動する吹子で鉄を得て、農具を作ったことが書かれています。

皮吹子(岩手県小林家に伝わる製鉄絵図)
【「和鋼博物館へのご案内」より】


朝鮮ではBC1〜2世紀と考えられる京畿道の冶鉄住居址から、鼓風管、つまり羽口が発見されています。製鉄のごく初期の段階では、小さな炉を山の谷あいなど風通しの良いところに作り、自然通風により鉄を作ったと考えられていますが、我が国では自然風の利用が想定される大形羽口は例外的で、ほとんど吹子が用いられたようです。おそらく天羽鞴のような皮吹子だったと思われます。

930年代の『倭名類聚抄』では鞴の訓を『ふきかわ』としており、これが後に変化して「ふいご」となったとされています。我が国では冶金技術の伝来と同時に吹子も伝わって来たのではないでしょうか。また、『倭名類聚抄』では皮吹子と区別して踏鞴を挙げ『たたら』のこととしています。鉄のような融点の高い金属を作るには皮吹子では力が弱く、十分ではないので製鉄用として踏吹子が発達したと思われます。

踏吹子(「日本山海名物図絵」より)
【「和鋼博物館へのご案内」より】


村上英之助氏によれば、世界の吹子の歴史をみると、古代オリエント、インドを連ねる南方文化圏の皿吹子と北方種族を中心とする古代北方文化圏の皮吹子の二つの流れがあり、中国中原地域は後者に属する。これに中国南部からインドシナ半島にかけての越文化圏では皮吹子に竹文化を取り入れたポンプ吹子が発達し、これが吹差吹子へ発達したのではないかと想定しています。ともかく我が国では古代において皮吹子から踏吹子へと製鉄用の吹子が変化しますが、中世になると吹差(ふきさし)吹子(箱吹子)による製鉄が主流を占めるようになりました。しかし、鉄山によっては近世に至るまで踏吹子を用いた所もあり、製鉄用としては、17世紀末に天秤吹子が発明されるまで踏吹子と吹差吹子が併存していました。

吹差吹子【「和鋼博物館へのご案内」より】


図は18世紀中頃に書かれた『日本山海名物図絵』のたたらの図で、6人の番子が踏吹子を踏んでいます。構造は側面と底を粘土で固めた皿状の本体を中央で二つに仕切り、各室に吸、排気用の弁をつけ、これにぴったり入る大きさの嶋板を乗せ、この嶋板を踏んで風を送る仕組みになっています。室町時代に大鋸や台鉋が登場して、大きく長い板が作られるようになると、本体側面が板張りになり、風力も増して、広く普及したと思われます。

吹差吹子は鍛冶道具として知られる代表的な吹子です。図に示すように気密性の高い箱構造で、特に箱底部に特殊な工夫を加えて、風の分配を均等にするほか、柄を押しても引いても常に風が送り続けられるようになっています。吹差吹子の始まりは明確ではありませんが、鎌倉初〜中期ごろで、普及するのは板が安価に作られるようになる15世紀以降と言われています。

吹差吹子は大形のものでも運搬しやすく、また2〜4台と連結して送風能力を増すことができました。天秤吹子の出現により銑生産が急激に伸び、銑を加工する大鍛冶、小鍛冶作業が多忙になると、鍛冶用の吹差吹子の需要が急速に高まり、大坂天満のような特定の生産地が成立することになります。また、幕府の鉄座が1700〜1787年まで設けられ、鉄の問屋、仲買が大坂に集中したことも大坂の吹子を全国の鉄山や鍛冶屋に結び付けることになりました。吹子を使用するのは鉄山師、鋳物師、鍛冶屋、金銀銅山の床屋、飾り職、鋳掛け屋などありますが、彼らは年一度、旧暦11月8日に鞴祭りを行い、それが現代まで引き継がれています。

天秤吹子【「和鋼博物館へのご案内」より】


天秤吹子は吹子を踏む番子を大幅に省力し、たたらの生産力を飛躍的に高めたもので、中国地方で特徴的な発達を示しました。伯耆(鳥取県西部)では天和、貞享(1680年代)のころ踏吹子から天秤吹子へ、出雲、安芸(広島県)では元禄年間(1690年代)、石見(島根県西部)では享保年間(1710〜1730年代)にそれぞれ吹差吹子から天秤吹子へ移行し、それに伴って高殿たたら(永代たたら)体制が確立します。天秤吹きたたらの成立により鉄の生産能率は吹差吹子(2個付き)付きたたらの2倍、踏吹子たたらの約4倍に増大し、温度も上昇してズク押し、ケラ押しと言った近世たたら製鉄法が確立することになるのです。
天秤吹子の構造は、図のように踏吹子の嶋板を中央から切断して二つの部分に分け、その支点である軸を板の前後の両端に移し、左右二枚の嶋板の運動を司るための桿杆をつくり、天秤構造としたもので、一方の嶋板を踏めば他方の嶋板が上がるようになっています。天秤吹子には一人踏みと二人踏みがありますが、明治期にはほとんど一人踏みになっていたようです。なお、奥羽地方では踏吹子や天秤吹子はあまり使われず、大型の吹差吹子である大伝馬が主として使われていました。

吹子を動かす番子の労働の苛酷さは、次第に番子不足を招くようになり、動力として水車動力が使われるようになりました。中国地方で水車吹子が使われるようになったのは明治になってからです。日本で初めて水車吹子を用いたのは安政4年(1857年)、大島高任が築造した釜石の洋式大橋高炉です。中国では既に漢代に水車吹子が使われていたのに日本での使用が約1900年も遅れたのは何故でしょうか。

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