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ヤスキハガネとたたら

鮎川義介と新和鋼

大正7年(1918年)、第一次世界大戦が終結すると途端に不況に突入します。当時は株式会社安来製鋼所になっていましたが、大正9年(1920年)に工場の一部を閉鎖し、これまで経営と技術を担ってきた伊部喜作も社長を辞任します。大正14年(1925年)、工場再建を図るため、共立企業(株)の鮎川義介の助力を頼み、同社に経営権を委ねます。鮎川はのちに日産コンツェルンを組織し、第二次世界大戦中には満州重工業(株)を設立した偉大な起業家でしたが、安来を視察したとき、たたらの技術に感銘し、「和鋼の法灯を消してはならぬ」と救済を引き受けたそうです。彼は「量より質に重点を置け」という方針を示しましたが、これは現在の日立金属の基本方針でもあります。

鮎川社長のもと、安来製鋼所の実質指導者として赴任したのは工藤治人博士でした。彼は時勢に合った和鋼の利用を図るため、昭和6年(1931年)に新しく建設した木次工場(斐伊川中流域)で新和鋼、すなわち「清浄粒鉄」と「海綿鉄」の製造を始めます。清浄粒鉄は角炉で製造した木炭銑を電気炉で精錬し水流の中に投入して粒状の原料鉄とするもので、海綿鉄は木炭と砂鉄を十神炉(とかみろ)と称するロータリーキルンの中に入れて低温還元し、海綿状の鉄としたものです。

十神炉(和鋼博物館


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