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たたらの歴史

鉄穴(かんな)流し

近世たたら製鉄では鉄穴ながしと言う手法で砂鉄を採取します。つぎにこの方法を少し詳しく説明しましょう。

砂鉄としては主に山砂鉄を用います。まず、砂鉄の含有量が多く、切り崩せる程度に風化した軟質花崗岩などが露出していて、水洗いのための水利に恵まれた場所を選び、そこに鉄穴場と呼ばれる砂鉄採取場を設けます。そして、山の上に貯水池を設け、その水を山際に沿って走らせます。山をツルハシで崩して出た土砂はその流れに乗って0.5〜4km下手の選鉱場へ運ばれます。この水路を走りと言います。下手の選鉱場(洗い場)は3〜4か所の洗い池に分かれています。出雲地方では大池、中池、乙池、樋(ひ)の順序で次々と洗い池を通りながら、次第に選鉱され最高80%程度まで砂鉄分を高められて採取されます。軽い土砂は下手に流され、重い砂鉄は底に残る。これを何度か繰り返すことにより純度の高い砂鉄に淘汰されるという仕組みです。

砂鉄採取風景


水は同時に農民の大切な潅漑用の水でもあったので、砂鉄の採集は普通秋の彼岸から春の彼岸まで冬場の農閑期に限って行われました。また、作業は農閑期を利用し農民のアルバイトによって行われたので、農民にとって良い現金収入源であるとともに、鉄山自体もこれらの季節労働に大きく依存していました。ちなみに、この期間に1つの鉄穴場で砂鉄100トン採取すれば御の字と言われました。

しかし、鉄穴ながしはいろいろな弊害ももたらしました。大量の土砂を切り崩すため、膨大な土砂が下流に沈殿し、川床があがって天井川となるので洪水の原因となったり、河水の汚濁により潅漑ができなくなったりしたのです。そのため、鉄山師と農民との間で争いが起こり、藩命による鉄穴ながし禁止令がしばしば出されています。

一方では藩の事業として浚渫が行われたので農地は拡大し、畜産も盛んになりました。また樹木は30年単位で順送りに計画的伐採が行われたので、山の荒廃は起こりませんでした。このように、山陰の鉄山師は農、鉱、畜を複合経営し、安定した経営基盤を作り上げてきたのです。

たたらで使用された砂鉄は山砂鉄ばかりではありません。立地により川砂鉄や浜砂鉄も用いられました。方法は筵(むしろ)や笊(ざる)に砂を流し、底に溜まった砂鉄を採るという簡単なものですが、粉鉄舟のなかに竹簀(竹で編んだすのこ)を設け、その上に砂を盛り、柄杓で水をかけて舟底に溜まる砂鉄を集めるといった工夫もされたりしました。これらは農民の請負仕事で、採った砂鉄はたたら師が買い上げていました。


川砂鉄を採るために使われた道具類(和鋼博物館


鉄穴ながしによる砂鉄の採取が始まる前は、竪穴掘りによって採取していたようです。芸藩通史によりますと、砂鉄は「金銀鉱と違い深穴には生ぜず、多く岡阜(こうふ:高い台地)に産するので、深く穴を掘る必要はない。採った土鉄は水際にもって来て淘洗し、鉄を採った後は穴になったので鉄穴と名付けられた。」とあり、鉄穴の由来を述べています。

時代が下がり鉄の需要が増大してきますと、砂鉄の能率的採取法が工夫され、銑穴ながし法が成立します。それでは、一体いつ頃から鉄穴ながしが始まったのでしょうか。

広島大学の河瀬正利博士は「恐らく鉄穴ながしは戦国時代頃から始まったのであろう。鉄穴ながしに極めてよく似た金の採取法『ねこた流し』に起因すると思われる。ねこた流しは金銀山の採掘が盛んとなる文禄、慶長年間には各地の金銀山を中心に普及していたと推定されるからである」という趣旨のことを述べておられます。事実、慶長年間に出雲に入った堀尾吉晴は慶長15年(1610年)斐伊川上流での鉄穴ながしを禁止していますから、それ以前から鉄穴ながしが行われていたことは確実です。

18世紀中頃に鉄穴ながしは最盛期を迎え、同時に中国地方のたたら製鉄も飛躍的な発展を遂げることになります。

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