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たたらの歴史

山内生活

たたら場では仕事場と従業員の住宅を一緒にした一つの特異な社会を形成し、これを山内(さんない)と呼んでいました。

山内には事務所に相当する元小屋(もとごや)があり、たたら場全体を管理する元小屋手代、その下に山全体の差配に当たる山配、鉄穴師を差配する鉄穴師山配がおり、それに使い走りする野郎と呼ばれる小者がいました。一方、技術職に当たる職人の方は、たたら操業の技師長にあたる村下を長とし、次を炭坂(村下見習)、炭の装入を行う炭焚、天秤鞴を踏む番子、現場の使い走りする小回り手伝などがいました。以上がたたら作業に従事し、別に大どう場、鉄打場(ケラを小さく割る)には鉄打、砂鉄の再選別所には内洗師がおり、その他炭焼き専門の山子がいました。

村下の装束(和鋼博物館


山内には大鍛冶屋を併設したものも多く、そこでは左下場(さげば)の長を左下、本場の長を大工と称し、本場で向槌を打つものを手子と言っていました。

これらの従業員はたたら、元小屋に接して建てられた山内の住宅に住み、団地状の集落を形成していました。山内の戸数はおよそ30数戸で、人口は家族を併せ150〜160人でした。多くは先祖代々山内に住み着き、たたらに従事してきたものが多いようです。

職人のうち技術者と言えるものは村下、炭坂、大工、左下で、彼らには扶持が付いていましたが、他は最低限度の生活を保証する程度の報酬しか無いため、給料の前借りで生活するようなものが多かったそうです。番子になると、かつては諸国の渡り者、食い詰め者、流れ者などが多く、そのため山内には厳しい条目、すなわち法度を設け、村人との摩擦を防止していました。山内は独自の警察権をもち、十手、捕り縄もあって、怠け者や法度を破ったものは鉄倉に押し込められたり、元小屋の板場できついお仕置きを受けたりしました。よそ者が多かったので随分と厳しいことも行われたようです。

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